思えば、結婚直後から「子どもは?」と唐突な質問をたびたび受けるようになった。お節介な親戚たちから、デリカシーのない会社の同僚たちから、そして教会の人々から…多方面からの一斉攻撃。どうしてみんな私たち夫婦が子どもを産むかどうかにそこまで興味があるのかと、不思議だった。私は「絶対に産みたくない」とまでは言わないけれど、「絶対に産みたい」とは全く思わない人間だ。同年代の友人たちと話していると、「そろそろ産みたい」「早く産みたい」「○歳までには一人目を」という声がちらほら聞こえてくる。私にはその「産みたい欲求」が見当たらない。奥底に潜んでいたりするのだろうか…。今のところ、発見できずにいる。そして、クリスチャンとして「産みたくない」と思うことがどうなのか、という点で時々悩むことがある。クリスチャンが、いわゆる「選択子なし」「チャイルドフリー」「子どもを持たない」という生き方を選ぶことはアリなのか。
聖書では、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(創世記1:28)という命令があったり、「女は子を産むことで救われます」(Ⅰテモテ2:15)という難解というか、はっきり言って意味不明な箇所があったり、全体的に「子ども=神の祝福」「子どもがいない=不幸」「女性=子どもを産まなければならない、産んだ方が良い」という描かれ方がされているように感じる。控えめに言って、とてもモヤモヤする。でも、聖書に書いてあることを大っぴらに否定はしにくいし、教会では子どもが複数人いる「にぎやかなクリスチャンホーム」が望ましいとされている空気を感じるし、教会には子どもが欲しかったけれど与えられなかった夫婦もいるし、いろいろ忖度すると、このモヤモヤをどこにぶつければ良いのか分からなくて、結局ずっとモヤモヤしている。「私は産みたくないと思っているし、クリスチャンだからって別に産まなくても良くない?」と言える場があまり無いのである。
キリスト教業界では、産みたくないという思いや産まない選択は否定的に捉えられ、歓迎されないことが多い。ある先輩クリスチャンから「結婚したら子どもを産むのは自然なことでしょう」と言われたことがある。つまり、子どもを産みたいと思わない私は「不自然」だという説教である。「命は神の領域なので、人間が手出しをしてはいけない」と言って、避妊を否定するクリスチャンもいる。実際、避妊しない結果「子だくさん」のクリスチャンホームも多い。そのような人々にとっては「選択子なし」という生き方は、命を司る神の主権を無視した自分勝手な人生設計と映るようだ。「産めない」は同情と共に受け入れられるが、「産まない」は冷遇される。「産んだ」と比べると、どちらも見下されているようには感じるが。
しかし私は、「産む選択」も「産まない選択」も、どちらも人間の選択に変わりないと考えている。なぜ産む/産まないのか、という動機次第では、同程度に自己中心的であり得る。それなのに、産みたい理由は非難されず、産みたくない理由だけが非難されるのは、フェアではない。「そんなこと考えずに、与えられたから産んだだけ」という人でも、出産に至ったからには「産む選択」をしたと言えるはずだ。子どもを産み育てることには責任が伴う。それなのに、自分が決めたことではないと言うのは無責任だ。子どもを産み育てることを希望し、決定しているのと同じく、子どもを産み育てないことを希望し、決定してはいけないのだろうか。産むのもエゴだし、産まないのもエゴ。自分や周りの人々を見ていると、そう思う。
また、個人的に違和感が拭えないのは、子どもの数が0の場合は産まないことを「神の主権を認めていない」と非難されるのに、1人いさえすれば2人以上産まなかったとしても、産まないこと自体については何も言われない点だ。もちろん、「一人っ子じゃかわいそうよ。2人目は?」とプレッシャーをかけられることはあるのだが、「産まない選択」に関して「神の主権を認めていない」などとコメントされることは少ないように思う。1人産んだ後に避妊をしていたとしても、だ。1人産んでさえいれば、出産可能人数マックスまで産まないことについてはお咎めなしなのだ。
可能性があることを人間が閉ざすことが神の主権を侵害するのでダメだと言うのなら、妊娠だけではなく、他の可能性も閉じないようにしなければいけない。子宮がある人がみんな出産しなければならないのなら、脳がある人はみんな学問を極めなければならないし、足がある人はみんな運動選手を目指さなければならない。というか、そもそも神の主権は人間の意志や行為によって妨害されるようなものではない。言ってしまえば、神は避妊を失敗させることができるし、私たち夫婦に子どもが欲しいという願いを持たせることだってできる。神の主権を持ち出すなら、わざわざ人に産まないのかと詰め寄って嫌な気持ちにさせることをせず、神が働くことをただ信じれば良いのではないだろうか。
教会で時々困ってしまうのは、親切な教職者やクリスチャンから「子どもが与えられるように祈りましょうか?」と聞かれることである。あまり理解されないだろうなと思うので、公には「子ども産みたくない」と表明することは積極的にはしていない。周りには「産みたかったけど与えられなかった」という人もいるし。しかし、産みたいと思わない人がいるという事実を知ってもらうために、あえて伝えた方が良いのかと考えることもある。ただ、「子どもを産み育てること=良いこと、誰もが自然に望むこと」という価値観が浸み込み、教義がそれを補強しているキリスト教界隈で、「産まない生き方」を主体的に発信することにはリスクが伴うので躊躇してしまう。
ついでに要望すると、「子どもに恵まれない」という言い方も、そろそろやめてほしいと思っている。神の恵みはいつも十分だし、子どもを産み育てたいとは思っていないのにも関わらず、一方的に「欲しいのに与えられない、かわいそうな人」だと思われるのは居心地が悪い。というか、産みたい/産みたくないに関係なく、子どもがいない夫婦を「かわいそう」「欠けている」と見下すのは適切ではない。「子どもが欲しくないなんておかしい」「普通は自然に欲しいと思うもの」など、産みたいと思わない人間を「異常」「問題アリ」と見なすこともだ。聖書に、「人は結婚して子どもを産み育てるべきである。そうしない人は問題である」と書いてあるだろうか。自分の価値観を人に押し付ける前に、その価値観がどこから来たものなのかを吟味してほしい。
